May 21, 2024

キリストとともに

聖家族と聖ベネディクトの戒律とともに歩む

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お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^) 介護や保育などの場に「ボランティアの方」が関わることは多いでしょう。 音楽の演奏、工芸や手芸の指導などが折々に、施設などにボランティアに来られるのを見ると頭が下がります。 限られた職員やご家族以外の人と接することの少ない、要介護度の高い方々、乳幼児、障害児・者の方々にとって、ボランティアの方々は外の世界の空気を持ち込んで下さるからです。 しかし、日本国政府や行政の関係者の中には、なぜか「ボランティア」を「便利にただ働きしてくれるお人好し」と勘違いしている方々が多いようです。 その証拠に何と!2020東京五輪の通訳や案内などの会場スタッフを「ボランティア」と言う名の「ただ働きにやらせよう」という計画があるようなのです。 このままだと、明らかに生死に関わる介護や保育ですら「タダ働きのボランティアにしてもらおう」などと言い出しかねません。 介護や保育は「応分の対価を払うべき労働」です。対価がなければ、そもそも他人の命の責任など負えないし、対価のない労働はできません。それが資本主義というもの。 だいたい、「ボランティア」とは「自主的な活動」です。 学校教諭や会社の指示で「休日返上のタダ働きを強いられる」のは、「自主的な活動」ではなく「対価を払うべき労働に対価を払わず」行わせる「強制労働」です。 日本では教育課程での部活など、「特別にしたくないけど、内申書に影響するから部活で朝練」などが当たり前にあります。部活の顧問教師も明らかな時間外労働を「我が校の名誉のために!」強いられています。そのせいか、「自分の意思で、自分のために、自主的な活動を誰かとともに行うことで、社会参加する」というボランティア本来の意義を理解できない日本人が多すぎるようです。 カトリック教会で考えるボランティアには、明確な定義があります。 神の無償の愛に応えることで、世の人々にキリストを伝える目的に叶う行為。 自らの生き方を奉献した奉献生活者(司祭、修道士、修道女、宣教師など)であっても自らの生活と生き方に支障をきたさない範囲内で、他者とキリストの愛を分かち合える行為(困窮者への衣食住支援、声かけ、友だちになることなど…。) 政治や経済界の利権など、時にキリストの愛に背く罪の行いに加担しないよう最善を尽くすこと。当事者と支援者が同じ神の被造物として対話することで、ボランティアをする人もまた「支援する人も支援を受ける人も同じ神の被造物」であると感じ、互いの中にキリストを見出せること。 欧米のカトリック教会で③は、時に問題になります。 先の聖ヨハネ・パウロ二世教皇が逝去された際、日本以外の世界中から、政治的な指導者がバチカンに大集合しました。「空飛ぶ教皇」と言われ、平和や和解への対話に尽力した方の追悼に信教思想の違いを超えて駆けつけることで、自らの政治指導者としての人徳をこぞってアピールし、それぞれの政治的思惑がらみの「和平会談」の政治的チャンスを掴むためです。 その中に、明らかにアブナイ独裁国家で「紙の上ではカトリック信徒」の独裁者が葬儀ミサに参列し、政治家の間で「独裁者と比較されたくない!」などと物議を醸し出しました。 その点、日本のカトリック教会の奉献者や信徒がボランティアをする際、問題になるのは①と②です。...

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お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^) 古今東西、知らない人に猜疑心を持ち、差別する人は世界中にいましたが、今の日本では、何かに「世界の陰謀集団」のレッテルを貼りたがる人が増えています。 いわゆる「ユダヤ系アメリカ人のお金持ち集団」「イルミナティ」、ちょっと古いところだと「フリーメーソン(正確な団体名はフリーメソンリー)」など、富裕層や男性限定の秘密集団めいた諸団体、および秘密結社などが何らかの「陰謀集団」とみなされているようです。 日本の安倍総理の周辺人士が所属するといわれる「日本会議」も十分に「草の根秘密結社」ですが、実態はイマイチ不明です。 さて、日本ではなぜか「バチカン」も「陰謀集団」だと思い込む一部の右派人士がいるようです。 「バチカン」を「陰謀集団」だと思い込んでいる方々の誤解あるあるトップ5を分析してみました。 1.「バチカン」は宗教政治の陰謀集団? 「バチカン」いわゆる「ローマ教皇庁所在地」は、1929年2月11日に教皇ピウス11世と当時の首相であったムッソリーニが「ラテラノ条約」を結んだ時から「バチカン市国」となり、イタリア政府とは別個の外交権を持つ宗教国家となりました。 本来は、ローマ時代までさかのぼる使徒伝承の教会群のあるイタリアのローマ市の一部です。現在も、水道、電気等のインフラ供給はローマ市より提供されています。 国民は800-900名ぐらい。バチカン市国国籍を持つ人のほとんどがバチカン市国内に居住する必要のある修道士、修道女、および常駐のスイス衛兵などです。 小さな国ですが、一応「国家」なので内政は「国務長官」が行い、首長はコンクラーベで選出されたローマ教皇です。 ローマ教皇が亡くなると、コンクラーベを主催する選挙管理委員長役である「カメルレンゴ」が、世界中の80歳以下の「大司教」「枢機卿」と言う各地域、国の「教区、大教区の長」で、教皇被選挙権を持つ人々をローマに招集します。 今回の教皇フランシスコの時には、「ファイルのようなものを授与し、コンクラーベ会場に入場する」シーンが世界中に放送されました。 世界中の枢機卿、大司教は数百人いるため、お互いのことを深く知りません。ファイルの中書かれているのは、厚さ的にみて、被選挙権者である枢機卿、大司教の名前(世俗名、修道名など)のリストなのかも知れません。 「コンクラーベ」を「根比べ」と揶揄するカトリック信徒がいるぐらい、ここから何回も選出作業が行われるのです 膨大な名前のリストとおぼしきものの中から、「教会の祈り」と呼ばれる1日のお勤めと観想の祈りのうちに、次期教皇としてキリストが望まれる人の名前を選ぶようです。 枢機卿ら被選挙権者の2/3が「数百名いる中の誰か一人」に投票した時、「その誰か」が新教皇に選出されます。そして本人が「私は教皇になります」と受諾すれば決定、という手順です。 黒い煙が上がると「選出不成立」、白い煙が上がるとサン・ピエトロ広場に「ビバ・パパ!(教皇万歳!)」の叫びが一斉に上がります。 そして、白い煙の1時間ほど後、新教皇が挨拶と「教皇として自らが定めた称号」を発表する、という次第です。...

(兄弟ジネブロは)自分への他人からのことばや行いによる辱めには、それがたとえ、ほんのわずかであっても、我慢できない性格の持ち主でした。 …(彼は)辱められた時に、沈黙を守ったり、あるいは口答えを慎むことができないことをよく承知していました。ところが、たまたま、そのような場合、相手に返す言葉があまりにも人を傷つけるのに気づいた彼は、どんな犠牲を払っても、沈黙を守り通す決心をしました。 …彼にとりもう忍耐もこれまでかと思われるような、ひどいことばを聞かされる羽目になり…たまらなく悲しくなり、聖堂に入って十字架の前にくると、耐えて来た恐ろしい苦痛を心から嘆き悲しみました。 そして彼は「ごらんください、わが主よ、わたしはあなたへの愛のため、これほどまでに耐え苦しんでいるのです」と訴えました。 すると…キリストが木の十字架状で釘付けにされている右の手を動かすと、そのわき腹の傷の上におかれ「わたしもまた、あなたのために耐えているのではないですか」と、仰せになりました。 …彼は、この瞬間に自分が別になったのではないかと思われるような激しい感動を、その魂と心のうちに覚えました。(石井健吾訳《アシジの聖フランシスコの小さき花続》聖母の騎士社;172~174頁抜粋) お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^) 2018年は2月14日が灰の水曜日です。この日から、3月31日までの間は、四旬節(レント)です。 四旬節は、キリストのご受難、十字架上でのご苦難を観想し、わたしたちもまた、主が十字架をわたしたちの罪のゆるしのために担われたように、自分自身の十字架から目を背けたいという欲望と向き合い、自らの十字架を喜んで担う人となれるよう、自分自身と向き合う祈りの時です。 冒頭のおはなしは、アシジの聖フランシスコの弟子であった「兄弟ジネブロの伝記」からの引用です。 生来の短気と持ち前の激しいツッコミぐせを自ら持て余していた兄弟ジネブロの沈黙の話は、聖フランシスコのもとで祈りと行いでかなり落ち着いた人になってからのおはなしです。 彼はまず、自らの人間的な忍耐力の限界に挑む沈黙という犠牲を自らに課しました。心の中で煮え繰り返る思いをひたすら押し殺し、耐え、自分の言動で傷ついた人の眼差しの中にキリストの愛を見出そうと必死になりました。 そんな彼にも、忍耐の緒が切れる日がやって来ました。その時に初めて、キリストは兄弟ジネブロに「わたしもまた、あなたのために耐えているのではないですか」と十字架上からチョクに言われます。 四旬節の犠牲とは、単純に嗜好品を我慢するとか、断食をするというだけのことではありません。世俗でキリスト教に理解のない人々に囲まれ、不規則な生活を強いられている平信徒には、灰の水曜日や聖金曜日の断食もままならないかも知れません。 ですが、自分の中で「今回は、自分の欠点であるこのテーマに挑戦しよう」と考え、自ら実践することは可能だと思います。 自分の小さな弱さと向き合うことは、四旬節の犠牲、祈りと行いの中で大切なことのひとつだと思います。 もちろん、金曜日には肉を食べない、「朝食はしっかり、昼食は軽く、夕食は食べない」古典的な断食や祈りなども、心身に無理がなく、家族や他の人々との関係性に悪影響を及ぼさないのなら素晴らしい行いでしょう。 また、酒、タバコなどの嗜好品を金曜日だけ、または四旬節の間中ずっと控えるなどの行いも、それを行うことで自分自身の弱さ、傲慢さなどと向き合えるチャンスとなるなら、主の愛にかなう行いでしょう。 四旬節を準備するにあたり、今自分に与えられた人生の課題は何か、思い巡らしてみるのもいいかと思います。...

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