《小さき花》から読む、四旬節の犠牲の行い
1 min read(兄弟ジネブロは)自分への他人からのことばや行いによる辱めには、それがたとえ、ほんのわずかであっても、我慢できない性格の持ち主でした。
…(彼は)辱められた時に、沈黙を守ったり、あるいは口答えを慎むことができないことをよく承知していました。ところが、たまたま、そのような場合、相手に返す言葉があまりにも人を傷つけるのに気づいた彼は、どんな犠牲を払っても、沈黙を守り通す決心をしました。
…彼にとりもう忍耐もこれまでかと思われるような、ひどいことばを聞かされる羽目になり…たまらなく悲しくなり、聖堂に入って十字架の前にくると、耐えて来た恐ろしい苦痛を心から嘆き悲しみました。
そして彼は「ごらんください、わが主よ、わたしはあなたへの愛のため、これほどまでに耐え苦しんでいるのです」と訴えました。
すると…キリストが木の十字架状で釘付けにされている右の手を動かすと、そのわき腹の傷の上におかれ「わたしもまた、あなたのために耐えているのではないですか」と、仰せになりました。
…彼は、この瞬間に自分が別になったのではないかと思われるような激しい感動を、その魂と心のうちに覚えました。(石井健吾訳《アシジの聖フランシスコの小さき花続》聖母の騎士社;172~174頁抜粋)
お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)
2018年は2月14日が灰の水曜日です。この日から、3月31日までの間は、四旬節(レント)です。
四旬節は、キリストのご受難、十字架上でのご苦難を観想し、わたしたちもまた、主が十字架をわたしたちの罪のゆるしのために担われたように、自分自身の十字架から目を背けたいという欲望と向き合い、自らの十字架を喜んで担う人となれるよう、自分自身と向き合う祈りの時です。
冒頭のおはなしは、アシジの聖フランシスコの弟子であった「兄弟ジネブロの伝記」からの引用です。
生来の短気と持ち前の激しいツッコミぐせを自ら持て余していた兄弟ジネブロの沈黙の話は、聖フランシスコのもとで祈りと行いでかなり落ち着いた人になってからのおはなしです。
彼はまず、自らの人間的な忍耐力の限界に挑む沈黙という犠牲を自らに課しました。心の中で煮え繰り返る思いをひたすら押し殺し、耐え、自分の言動で傷ついた人の眼差しの中にキリストの愛を見出そうと必死になりました。
そんな彼にも、忍耐の緒が切れる日がやって来ました。その時に初めて、キリストは兄弟ジネブロに「わたしもまた、あなたのために耐えているのではないですか」と十字架上からチョクに言われます。
四旬節の犠牲とは、単純に嗜好品を我慢するとか、断食をするというだけのことではありません。世俗でキリスト教に理解のない人々に囲まれ、不規則な生活を強いられている平信徒には、灰の水曜日や聖金曜日の断食もままならないかも知れません。
ですが、自分の中で「今回は、自分の欠点であるこのテーマに挑戦しよう」と考え、自ら実践することは可能だと思います。
自分の小さな弱さと向き合うことは、四旬節の犠牲、祈りと行いの中で大切なことのひとつだと思います。
もちろん、金曜日には肉を食べない、「朝食はしっかり、昼食は軽く、夕食は食べない」古典的な断食や祈りなども、心身に無理がなく、家族や他の人々との関係性に悪影響を及ぼさないのなら素晴らしい行いでしょう。
また、酒、タバコなどの嗜好品を金曜日だけ、または四旬節の間中ずっと控えるなどの行いも、それを行うことで自分自身の弱さ、傲慢さなどと向き合えるチャンスとなるなら、主の愛にかなう行いでしょう。
四旬節を準備するにあたり、今自分に与えられた人生の課題は何か、思い巡らしてみるのもいいかと思います。
兄弟ジネブロに倣い、実りある四旬節を過ごせますよう、心からお祈りいたします。