May 21, 2024

キリストとともに

聖家族と聖ベネディクトの戒律とともに歩む

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神は言われた。 「光あれ」。 こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。 神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。 夕べがあり、朝があった。第一日目である。 (創世記1章3~5節) 画像はこちらから  お元気ですか。ご無事ですか。しぇるりんです。(^ ^) しぇるりんの住むこの地域では、未だ新型コロナCOVID-19の検査・臨時病床の仮設はほぼ行われていません。 ↑北軽井沢の聖パウロカトリック教会 この小さな街の片すみには50以上のクリニック、少なくとも3つの総合病院が5km半径にあります。 それでも看護師や保健師が常駐する学校・介護施設・病院などでのクラスター感染(Spike spread)の当事者以外は、保健所の検査対象になりません。保健所に電話はつながらず、なぜか当事者の同居家族も「濃厚接触者」にも「検査対象」にもなりません。 新型コロナ感染拡大の話しはどうもタブーらしく、誰も話そうとしません。 行政の汚職と腐敗、新型コロナ禍での五輪とIR事業計画などが、新型コロナ禍に無為無策な根本原因なのに、多くの人は考えないで済ませたいみたいです。 人間の思い・言葉・行い・怠りは、いずれ人間の生命の闇を呈します。 わたしたちはつい、「闇」というと人間の闇の行いを思い浮かべては、自分も人間なのに怯える、という奇妙な特性があるようです。 光あれ! 神の聖なる闇は、混沌、深淵と水面に動く聖霊の働きの上に、光を注がれました。...

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初めに、神は天地を創造された。 地は混沌であって、闇が深淵の表にあり、神の霊が水の面を動いていた。 (創世記1章1~2節)  しぇるりんも、新型コロナ禍で身動きが出来ないなか、読書だけでは退屈すぎると考えるようになりました。 どうせ、地域医療の完全壊滅で、ちょっと散歩に出かけるのも生命がけです。その上、無償PCR検査も受けられず、新型コロナの後遺症は生涯完治しない可能性があるので、家に籠る以外出来ることもありません。 そこで思いついたのが、日本人の99.9%が誤解している「天地創造」をオトナのものがたり、闇の側面も含めて描いてみることです。 神は存在であり、実存である。これは、わたしが子どもの頃から当りまえのこととして教わったことで、この前提の変更は無理です。 キリスト教圏でたまに「自分はキリスト教を信じていない」という人に出会うと、自称「無神論の日本人」は鬼の首を取ったように「自分と同じ無神論者がいる」と勘違いするようです。 まず、友人・知人程度の仲で「自分はXX教で葬式し、どこのお墓に入る予定だ」と、飲み話で話すことはないでしょう。学者同士がいくら深く討論したとしても、バーで気勢をあげるオッちゃんと基本的には同じことです。 キリスト教圏の人々の殆どは、今も洗礼を受けたキリスト教徒として洗礼台帳に記載された人です。神の存在や実存を完全否定する思想信条を持つ人は今もごくわずかです。 たいていの「キリスト教なんて信じてないぞ!」というキリスト教圏の方々は、政教分離=Church and StateのChurch(教会)の「教会権力や、その政治への影響力」は信用ならないと考えている→教会権力の影響を受けることを否定する、と言うニュアンスの方が殆どです。 実際、宗教を否定する共産主義を標榜していた旧ソビエト連邦でも、ロシア正教徒の殆どはその先祖と同じくロシア正教会で洗礼を受け、人によっては冠婚葬祭のすべてをロシア正教式で行なっていました。深刻な対立があったのは、世俗的ソ連 v.s. ローマ教会です。 逆に、政教分離を「政治と教会はそれぞれ独立した存在として機能すべきである」という原則が、なぜ主に西欧社会に必要だったのか…については後で論じましょう。 まずは、「唯一の神がある・いる」を完全否定する考え方は現代のキリスト教文化圏にはまったく理解できない、という点だけをおさえておきましょう。 「神がいる=神的実存性」という考え方が言語の文法、言い回しや思考、論理や文化的価値観の基礎にあるからです。 日本では、どうもこの点を理解していない有識者や学者も多いです。「日本的な無神論」という名の「不可知論=個人が一人で歴史と伝統のすべてに立ち向かい、自分なりの信仰なき共通倫理を打ち立て、全人類と共有する」ことなど99.99999%まったく不可能です。...

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 清潔な飲み水は、最重要課題です。なぜなら、それは人命にとって、また地圏や水圏の生態系の維持にとって、なくてはならないものだからです。 健康管理、農業、工業のためには真水の水源が必要です。 かつて水の供給は比較的安定していましたが、いまでは多くの場所で需要が持続可能な供給を超えており、短期的、または長期的に深刻な終末を迎えています。 …人口の大部分が安全な飲み水を入手できなかったり、農業生産を妨げる旱魃を経験したりしています。水の豊かな地域を擁する国々がある一方で、猛烈な水不足を耐え忍ぶ国々もあるのです。 (教皇フランシスコ《回勅ラウダート・シー ともに暮らす家を大切に》28、p.32、画像参照) お元気ですか。ご無事ですか。しぇるりんです。(^_^) 今日は、節分です。明日、2月3日は福者ユスト・高山右近の祝日です。 時々、忘れていたかのように救急車のサイレンは響くけど、同じ車両が搬送先を見つけられないのか、別の車両なのかも分かりません。 しぇるりんの窓の外は、150m四方に信号や踏み切りのある交差点がいくつもあるからです。 東欧圏に住むインターネットの向こうの同僚が住む小さな街は、パンデミックのロックダウンで人出が増えたそうです。 ショッピングモールも公園も人出が多く「ショッピングモールで働く友達が気が狂いそうって言ってる。家にいるのもウンザリだろうけど、危険すぎる!」と憤っていました。 SNSでは、「新型コロナ禍なんて、嘘だ!」という類いの書き込みをいまだに散見します。どうみても映画「スターウォーズ」のストーリーをなぞったとしか思えない極右発言を、真面目に信じ込む老若男女がいて驚きです。 先進国の中で、日本でだけ無料PCR検査の義務化、新型コロナ専用臨時病院の設置、隔離と給付による経済活動の持続など、国民目線の政策が行われていません。 新型コロナの市中感染を認めたら、2021年に延期した東京五輪を中止にせねばならない。「五輪中止!」のひと言が言えず、ただズルズルと大切な時間、人命、血税が冗費されています。 未曾有のパンデミックと人災の中、ただルルドの聖母に祈るしかない自分の無力さを感じます。 豪雪災害で、北の国では大変なことになっているようです。一見、降雨量が多過ぎて困っている日本での水資源のこれまでと未来について、考えてみたいと思います。 豪雨災害で渇水が起きる? 水害を人災にするのは、水利権争いを「戦争」「紛争」にしたがる一部の男性たちは、「武力解決」「国民の命より、権力や国力の誇示」を人命より優先課題だと考えるようです。 豪雨災害は、古来より洪水と渇水の原因です。チグリス・ユーフラテス文明の古都、旧約聖書に記された人類最古の都サマリアが滅亡したのも、洪水、渇水、そして美しいレバノン杉の一次林の無分別な伐採が主な原因と考えられています。...

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進歩や人間の能力に不合理な自信を抱いていた時代を経て、今やより批判的なアプローチを取り入れている社会集団が存在します。 地球で起きていることについての真摯で憂慮ある懸念が膨らむにつれ、環境と自然保護への関心が高まるのを目にします。 今日わたしたちを悩ます問題、もはや覆い隠しえないそうした問題を、大まかに振り返ってみましょう。 わたしたちのねらいは、情熱の蓄積や好奇心の満足ではなく、むしろ痛みをもって気づくこと、世界に起きていることをあえて自分自身の個人的な苦しみとすること、そして一人一人がそれについてなしうることを見付け出すことです。 (教皇フランシスコ《回勅ラウダート・シー ともに暮らす家を大切に》19) お元気ですか。ご無事ですか。しぇるりんです。(^ ^) 新型コロナが間接的原因となり、活発な活動ができなくなったグレタ・トゥンベリさんの、2020年初頭の思いつめたような表情が、今も時々目に浮かびます。 スェーデン出身の彼女の呼びかけに応えた、大ぜいのアフリカ大陸、南太平洋諸国、トルコ、インドの多くの若者たちの姿が、そこに重なります。 欧米では今も「金曜日ストライキ」を自宅で続けている若者がいるでしょう。日本にもツイッターで若者が金曜日ストライキを続けていますが、オトナが合流するにはジェネレーション・ギャップを主張されそうな雰囲気です。 地球温暖化は、一部の日本のオトナにとっては「サンマが漁獲量が減った」「愛媛みかんが高くなった」など、きわめて矮小化した問題と捉えられている可能性があります。 海洋生物学者でタレントの「さかなクン」が言うように「サンマさん(明石家さんま氏ではない!)は、海流しやすい繊細な温度感覚があります。温暖化した海では「うわぁっ!暑い!」と悲鳴をあげて、より寒冷な海流へと回遊海域を変えちゃうんです!」が現実です。 たまたまサンマの回遊により相応しい海水温の海域の殆どが日本の排他的経済水域外になったのは、隣接諸国との領海紛争が根本的な原因ではなく、地球温暖化による海水温の上昇が問題です。 愛媛みかんも、温州みかんの木が育つには愛媛県の温暖化が進み、立ち枯れが起きやすくなったからです。その分、以前は酸っぱくて美味しくなかった神奈川県(1990年代まで日本産温州みかんの北限)の温州みかんはサイズも大きく、とても甘くて美味しくなりました。 しぇるりんがここで言いたいのは、「地球温暖化と環境変動は、わたしたち自身の痛みである」ということです。 稲作・畑作農家や漁業関係者は、地球温暖化による影響をかなり深刻に被っていながら、主に政治的な「忖度」のためなのか、声を上げようとしないように見えます。 多くが都会に住む、日本のわずかなカトリック信徒であるわたしたちが「ともに暮らす家」のために何ができるのか、考えてみましょう。 地球で起きていることについての真摯で憂慮ある懸念 日本に住むわたしたちの多くは5月が近づくと、「地球温暖化」を肌身に感じます。そう、高温多湿+ビル街の熱放射による高温多湿で無風の「酷暑」、そして亜熱帯のスコールに近い「非常に激しい雨」「猛烈な雨」「局地的豪雨」を伴う「梅雨」がまもなく来るからです。 株式会社ウェザーニュースの報告書によれば、1976~1985年と2007~2016年を比べると、「非常に激しい雨」の頻度はおよそ1.3倍、「猛烈な雨」の頻度は1.7倍、「局地的豪雨」は「ここ数年増加傾向にある」だそうです。...

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お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^) 2018年、平成最後の天皇誕生日は日曜日で、ちょうど振替休日がクリスマス・イブになります。 そこで、今日2018年12月23日は、特別配信でクリスマス・イブミサへのお誘いも兼ねて、クリスマス・イブとクリスマスの違いについて、改めてお話させてください。 よく、クリスマス・イブというと「恋人たちのクリスマス」と思われがちです。 これは、あながちカトリック教会でも「ぜんぜん違う」とは言い切れません。 「イブ」とは中世の英語で「eve, even, even=evening(夕方)の異形」を表すことばで、祝祭日の前夜祭を意味します。 聖公会の教会の祈りでは、いまでも晩の祈りを「even song」と今でも呼びます。 つまり「イブ」とは、「前夜祭、直前、夕方」に由来する言葉です。 すると、「夕方、または晩」って「何時から?」という疑問が湧きます。 実は、「イブ」には時間的な定義があります。18:00~が「夕方、晩」と現代では定められています。 なので、クリスマス・イブのミサは主日(日曜日)の土曜特典ミサと同じく、前日の18:00~以降に始まるのです。 さて、クリスマスイブが「恋人たちのクリスマスの日」と思われているのは、イブ・ミサのとき、まだ家族として迎え入れ、迎え入れられるために正式に紹介するまでに至っていない恋人たちが、教会の集いで会える日でもあるからです。 別にミサがデートの場所、というわけではありません。ですが、今でも恋人と一緒にミサに参加し、自宅まで送り迎えをする、という古い習慣はカトリック教徒が多数派の国ではあります。 クリスマスのミサには、イブ・ミサ、いわゆる前晩のミサ、クリスマス当日である25日の朝のミサ、昼のミサの三種類のミサを行うことができます。 実際に、この三種類のミサを全て行う場所があるのかどうかはわかりません。なにせ、カトリック教会の<教会の祈り>という日々のおつとめが4回+ミサ3回+αでそれぞれの修道会や宣教会の定める祈りやロザリオの祈りなどを行うとすると、まる二日間、ほぼ休むひまなく祈り続けることになってしまうからです。 街中にあるカトリック教会では、通常、クリスマスイブのミサを1~2回、クリスマス当日の昼のミサを一回、という感じでしょう。...

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^) しぇるりんはごく個人的な好奇心と出会いがあって、宗教人類学という学問をかじったことがあります。 なので、出来れば個人対個人でなければ話したくない話題が、いま流行りの「スピリチュアル」と「キリスト教における霊性」についてです。今回は、「スピリチャル」とキリスト教における霊性、神秘主義の問題を掘り下げてみたいと思います。 私は「スピリチュアル」で生計を立てておられる方、趣味と実益を兼ねて副業としてなさっている方の業務妨害をする気はありません。ただ、グレーゾーンの問題で悩む方が多々おられるので、取り上げてみたわけです。 「スピリチュアル」は、国と地域により流行に偏りが見られるようです。日本国内では、主に西洋占星術、主に易経を起源とする東洋占術、霊感占い、ユダヤ教のカバラ秘数、日本の風水、「日本古来」を自称する様々な神道、仏教、道教などの修行や修練など、流行とは言えじつに多種多様なのが特徴です。 面白いことに、欧州では「スピリチュアル」でほぼ不動の座を占める主流が、インドのタントラヨガなどの神秘主義ヨガと西洋占星術、おなじみの水晶玉占いです。そして、主流とは言えないまでにも欧州では何かと社会問題になっているのが、日本人には殆ど馴染みのない「反キリストの悪魔術」、そしてアフリカ由来の「スピリチュアル魔術」の類いです。東洋占術は、漢文で書かれた原典の欧州言語への翻訳本が少ないこと、特に中国を中心とする思想は漢字がしっくり来る文化でないと理論的に分かりづらいという問題が、欧州では文化的な距離感と感じられているようです。 これらの「スピリチュアル」や「ヒーリング」などは、日本でも欧州でも同じように一定の愛好者がおり、欧州でもパリの有名な占星術師は一ヶ月先まで予約一杯、などという話は女性雑誌にも書かれている通りのようです。 学生時代、複数の「スピリチュアル」を生業とする人々にインタビューをしたことがあります。彼ら、彼女らは、15分~の占いから、1週間ほどの「ご祈祷」や「ヒーリングツアー」の企画で、主に一時的な慰めを得たい人々や自分の欲求を叶えたいと願う人々を相手に商売しています。方法論はさまざまですが、彼ら、彼女らは自分の慰めが通じる相手を選んで顧客とする傾向があり、とくに病気でないけど不安や悩みある方々のお手軽カウンセラー、また、人生相談の聴き手的な面もある一方で、スピリチュアルの分野により得手、不得手があります。 「スピリチュアル」に従事する多くは「未経験可、独学可」ぐらいの緩い募集要項で集まる人であることも多く無害な相談の聴き手であることも多いのですが、スピリチュアルに関わることで「ある種の霊的な災害」に巻き込まれる可能性は否定できません。 また、「スピリチュアル」の方々はあくまでも商売でやっていることなので、あなたの魂の安全や、人生の選択に対する責任を負ってくれるわけではありません。 日本ですと、「スピリチュアル」と「キリスト教の霊性」のグレーゾーン問題として、「特定の地の気はどうなのか?」「霊的な家筋には、祖霊が憑いているのか?」などがキリスト者同士でも話題になったりします。 実際、地の気があるかどうかと言われると、しぇるりんも完全に否定は出来ません。霊感占い的なものと、いわゆる中国朝鮮で古来から、山川草木の地理の「地の気」を総合判断する「風水地理学」は、異なる分野だと思われるからです。また、それぞれの地域の地層や位置的影響、伝統、歴史などの要素を、東洋的には「地の気」と感じ取っているだけかも知れないので、グレーゾーン問題だと感じています。 また、実際にとても信心深いカトリック信徒の中には、しぇるりん自身のように「過去に存在した地域の神社や習合宗教の宗教者の末裔」である人があんがい多いです。何となく「神霊的なものが、時代の変化でより所を喪失して霊感の強い自分に憑いている」のが煩わしく、「えいっ!」と洗礼の秘跡と信仰の実践を通じて「悪霊の拒否」で追い払ってしまったのは、どうもしぇるりん一人だけではなかったようです。 聖コルベは「日本はとても悪霊の多い国だ」と言われたそうですが、欧州で言うところの「悪魔」のような強い悪霊はほぼ見られないようです。 ちなみに、日本のカトリック教会で映画「エキソシスト」に出て来るような「悪魔祓いミサ(エキソシズム)」が行われたのは、誤解により一回だけ、が公式記録のようです。 カトリックで言う悪魔祓いは、「トイレの向こうから変な音がする」などの「霊異現象」では行いません。 いわゆる「オカルト現象」に対して行われる祈りは、カトリック信徒なら誰でもが知っている日常的な祈りです。十字架の印、主の祈り、アヴェ・マリアの祈りなどと、建物や場所の祝福の祈りであり、悪魔祓いではありません。ただし、「オカルト現象に悩むと主張する信徒がいるので、祝福の祈りをしに司祭が訪問する」時には、そのたびに教区長の許認可が必要です。 悪魔憑きが疑われるのは、次のような事例です。ご聖体を安置する教会に入ろうとするとうら若い女性が男の野太い声を出して叫びをあげたり、ミサの間に暴れたり妨害行為やイエズスやマリアへの暴言を吐き続ける、教会の十字架や聖母マリアなどのご像やご聖体に対して異常な恐怖感を覚えて暴力を働く、心身に何ら病気が見つからず、向精神剤も効き目がないのに深刻な病状がある…などの症状が見られる場合などです。 その場合、前述の祝福の祈りでの反応を悪魔祓いミサの有資格者である司祭が司教に報告し、司教以上の職位にある司祭が悪魔祓いミサの必要性の有無を判断します。...

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(そのとき、イエスは十一人の弟子に現れて、)言われた。 「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」 主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座につかれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。(マルコによる福音書16:15-20、<聖書と典礼>より) お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^) 主イエズスがご復活になり、40日間弟子たちの前に姿を現し、天のみ恵みについて弟子たちに語られたのち、天のみ国に弟子たちの前で昇られた、と《新約聖書》に書かれています。 天国に行かれる前に主イエズスは、冒頭の聖句にあるように、洗礼を受け、心から主イエズスを信じる者には「しるし」が伴うと言われました。 冒頭の聖句にある前半の内容は、現代では大司教の命で一定の研修を受けた司祭が行う「悪魔払いミサ(エキソシズム。」、神によって新たにされた心でみ言葉について語ることを意味するのでしょう。後半の「手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず…」は、明らかに悪意ある「自称」友人、知人、上司や教師らとの交流が避けられない現代にあっても、イエズス・キリストのみ恵みと愛に守られた生き方を踏み外さない意志を保てる、ということだと私は思います。 5月は聖母月でもあります。聖母のみ恵みといえば「バラのような香りがただよう」という奇跡が有名です。 日本のカトリック教会では、個人的な奇跡を体験した方、み恵みを頂いた信徒や宣教者の確率はとても高いように思われます。 先日、ある方のお葬式に立ち会ったシスターが「蘭麝香のような言葉では言い尽くしがたい香り」が不意にただよったのを感じた、とフェイスブックで言っておられました。 わたしもたった一度だけ「ばらに似た香り」のみ恵みをいただいたことがあります。 聖マキシミリアノ・マリア・コルベ神父さまの物語にもありましたが、聖母のみ恵みが訪れた時の香りは、「農薬を一切使用していない状態で、野ばらのつぼみが花咲く、まさにその朝の瞬間にただよう強い香り」に似ている感じがするというだけで、何の花の香りに似ていると断言できるものではありません。 わたしは、そのみ恵みを頂いてから、そのとき働いていた会社を辞める決意をしました。聖母がいつもわたしの祈りをイエズスに執り成しておられるのなら、たとえ困難な日々が待ち受けていても恐れることはない、と明日を信じられると思えるようになり、不安症状が発達障害で強いにも関わらず、不必要な不安に駆られることが少なくなったのです。 いろいろなことがありましたが、これから新しい第二の人生を踏み出せそうな気がしています。カトリック教会で、公的に崇敬を認める「奇跡」は、秋田の聖母像が涙をながされ、特定のシスターにメッセージを与えられたように、それぞれの教区がローマ教会の認可を得て「信徒がその奇跡的現象が「カトリック教会の教え」を豊かに宣べ伝え」「使徒伝承の福音宣教の一助となる」ものでなければなりません。 また、修道会、観想修道院の設立、宣教活動などに祈りで貢献したり、メッセージを受けた人が「聖人、聖女」とカトリック教会で認められるためには、その生きざまが明らかに「奇跡的」であり、キリストの祝福に満ちていると証言する証言者が大勢あり、なおその死後、少なくともその聖人・聖女候補に祈りの執り成しを願い、二度の奇跡を行ったと公的に証明されなければなりません。 現代では、聖人・聖女候補に関する徹底的な調査報告書が提出されている人の中から、誰かがその候補者に執り成しを願って祈った結果、医学的な「治癒」が不可能な病いが治癒することが列聖の条件となることが多いようです。医学的な治癒の可否や、治癒状況に関しては、主にローマ教会で委託する医師団が最終決定を下します。 医学的な見地から奇跡が起きたため、列聖された最近の聖人、聖女で有名どころを例にあげてみましょう。その死の直後に教皇の命で「尊者(奇跡の事例のない聖人の前々段階)」として列聖調査を始め、「神のしもべ(尊者または福者に該当)」として福者として申請されたのが、聖ヨハネパウロ二世です。その後、フランスの修道女のパーキンソン病の奇跡的な治癒が認められて「福者」として列福され、2013年にコスタリカの重病の女性の治癒が奇跡と認められ、聖人となりました。「神のしもべ」は、その生きざまがイエズス・キリストの教えを伝えるために捧げられた、と広く認められている人であり、その国や地域でその方の生きざまに倣らうことは相応しい、とローマ教会の教理聖省という部署で認められた場合のようです。 その話をどこかでしたら、未信者の方に「じゃあ、カトリック教会って、聖人・聖女候補の方々がうじゃうじゃ大勢いるんですか?」と尋ねられました。 まさにその通りで、日本の尊者だけでも、サレジオ修道会日本管区の創設者、「尊者ヴィンセンシオ・チマッティ司祭」、バタ屋集落と呼ばれた蟻の町(墨田公園)のマリア、「神のはしため(神のしもべが女性である場合の呼称)」「殉教者」と認められた「尊者エリザベト・マリア北原玲子」などがいます。(国内で尊者、または列聖調査中などの方でご存知の方がいたら、ご一報ください。)...

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神はこれらすべての言葉を告げられた。 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。…わたしは主、あなたの神、わたしは熱情の神である。…わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には幾千代にも及ぶ慈しみを与える。 (出エジプト記20:1~6抜粋) お元気ですか。しぇるりんです。(^.^) かなり頻繁に「キリスト教では絶対神を信じている!」とSNSで言われ、当惑することがあります。 キリスト者はカトリックであれ、プロテスタントであれ、「唯一の主、全能の神、すべての見えるもの、見えないものの創り主である神」を信じています。「ひとつの神、主」であっても、その存在が「絶対」だとは全く思っていないので、「絶対神?」と言われると、鳩が豆鉄砲を喰らったように困惑します。 だいたい「絶対にやってね?いい?」と言われたら、「疑問、否定、議論、対話や譲歩の余地なく、状況がどのようになっても何かをしてくれ!」という意味合いに聴こえます。 また、「絶対やるよ!」と言ったら、「必ずします」を力強く答えたと取るか、決してこちらの意図通りにはやらないのだろう…と思えるわけです。つまり、日本語の「絶対」には、譲歩も対話も、ゆるしも平和も愛も慈しみも存在しえない冷淡非情なニュアンスがあるように感じられます。 ちなみに、英語で絶対を表す「absolute」をオックスフォード英英辞典で調べると、「総合的だが詳細や内容が明確でない」「主張を強調して表現する」「状況、限界を設けることのできない力や正義」「独裁的な」「最終的な」という意味が出てきます。 どうも、日本人はキリスト教が一神教であること、聖霊のみ恵みと殉教者の尊い犠牲と祈りにより二世紀以上の間、潜伏キリシタンによるカトリック教会共同体が存続し、江戸末期に大きな外交問題に発展したことを、徳川幕府も明治維新政府も、「潜伏キリシタンは、不可能な何かを信じて、神社仏閣(への支払いや行事参加などの労働力提供)をないがしろにしようとしているんだ!」と受け取ったようです。 人間が、他の人間の心や内面的な自由を束縛しようとすることは、愚かなことです。どれほど強大な権力を握っても、本人の意に反して「人間を根本から造りかえる」なんて、どこまで技術力を駆使してもある一定の限界があるのです。 試しに「アイツはバカだ!」または「困ったヤツだ」とあなたが思う誰かを、心の中に思い浮かべて見てください。そして、その人に何かを教え、導ける権威ある立場にいたら、あなたはその人に何をどうしたら、どれぐらい変えられるか、を想像してみてください。もちろん、権力や権威の乱用はキリストの愛と慈しみに背く行いなので、実際にこれを行ってはなりません。 その人がもし世にありがちな暴君的な存在なら、権力の行使で残虐行為を行えないよう監禁などはできても、その心のうちに煩悶する権力や権威への執着を変えることは出来ないでしょう。 冒頭の出エジプト記の「十戒」の第一の戒めにあるように、キリスト教の神さまは、「わたしは主、あなたの神、わたしは熱情の神である。…わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には幾千代にも及ぶ慈しみを与える」と言う愛と慈しみの源であられます。 わたしたちキリスト者の神さまは、「疑問、否定、議論、対話や譲歩の余地なく、状況がどのようになっても…」など、人間的な苦しみや悩み、痛みに無関心な神さまではありません。 潜伏キリシタンらもまた、浦上四番崩れなどの過酷な捕縛、監禁、拷問を受けてなお、祈りにより多くのみ恵みが与えられ、慈しみを体験しました。 考えても見てください。拷問された人が、拷問者の言いなりに「ハイそうですね。わたし、ニンゲン辞めます」とは言えるものではありません。また、拷問することに快楽を感じる残虐さに目覚めた人が、誰にも制止されることなく、自分の意思で拷問を止められものでもないのでしょう。 あなただって、「あなたがあなたでいるのがダメなの!あなた以外の何かになりなさい!」でも「何になるかは、空気読んで決めなさい」と拷問を受けて、言われ続けても、心が頑なになるだけではありませんか? 拷問は身体の傷跡よりずっと深い、心の傷を残す残忍な行為であり、拷問や言葉の暴力に脅かされれば、心は内向きになります。そこにもし、まことの信仰があるなら、かえって信仰と祈りは深まり、神秘主義的様相を呈しやすくなる、ということでしょう。 むしろ、日本でどのような状況にあっても、生死を超えて?絶対に否定してはならない、と洗脳されたのは「国家、国体に対する忠孝」です。...

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お元気ですか。しぇるりんです。(^。^) どういう理論的な根拠、個人的体験があってのことか、訊ねても答えない方が殆どなので、私にはよくわかりませんが、「キリスト教は押しつけがましい」と信じ込んでいる日本人が未だに大勢いるようです。 私がミサに向かう時、通る道には二つのキリスト教の教会があります。一つは大きな長老会派のプロテスタント教会、もう一つは私の通う小教区のカトリック教会。どちらの教会にも何らかの聖句を張り出したショーウィンドウ型の看板があり、夕暮れになると蛍光灯をつけ、明るくしています。この看板はみことばを伝えると同時に、暗い交差点の一角を照らす照明の役割をも担っています時々、その看板の前で立ち尽くし、「どうしようかな?教会に入ってみようかな?でも、入っていいのかなぁ?」といった風情で悩んでいる方を見かけます。 時に、ミサ時間を調べてからなお、立ち尽くしている方も見かけます。誰かが「どうされました?教会に来たんですか?」などと声をかけてくれるのかぁな?、とでも思っているのかも知れません。 現実に、駅の前でエホバの証人派やモルモン教の宣教師がこれみよがしに宣教活動を行なっているので、伝統会派のキリスト教でも同じようなことをすると考えているのかも知れません。 ある方に「キリスト教は押しつけがましい」というとても古典的なキリスト教差別を言われて、ふと気づきました。 キリスト教に大いに関心のある方も、誰かが「キリスト教、いいですよ。教会にいらっしゃい。」と背中を押してくれるのをボンヤリ待っている方が、この日本には多いのではないか、ということです。 残念ながら、伝統会派のキリスト教はどこの国であれ「キリスト教を押しつける」という現象は存在しません。自ら「わたしはカトリック教会で洗礼を受けて、信徒になりたいです」と教会に申し出て、司祭に受け入れられれば、一定の教育を経て信徒になるのです。カトリック教会の幼児洗礼は、主に親の意志で「我が子をキリスト教徒に育てるつもりです。万一の時、葬式は教会でお願いします」という一種の「入会儀式」にすぎません。 日本のお宮参りに似た行事だと思ってください。 幼児洗礼を受けただけの人は、カトリック教会で葬式をしてもらえるし、先祖代々の教会墓地に入る権利を得ますが、それだけです。欧米と違うのは、日本人信徒で教会に墓地を持つ方は殆どいないことです。強いて言えば、日本では葬式代が仏教よりずっと安い!、という、とてもキャッシュな評価は信徒でないご家族からも聴きました。欧米の多くの方々は、今だに家族墓地が教会敷地内にあることも多いし、教会で葬式が出せないのは「何か教会で葬式をしてもらえないような悪事をしたのか?」と勘ぐられるため、洗礼だけ受けた「紙の上では何らかのキリスト教徒」は、未だ多数派でしょう。 南米諸国、南欧、アイルランドなど、カトリックに「紙の上では特に熱心な」社会では、堅信の秘蹟まで受けて「結婚式もカトリック教会で!」という人々も素朴に多いです。 いわゆる「冠婚葬祭&常識的にキリスト教徒」です。 実際に個人の信仰として訊ねると、欧米の方の8~9割が「特に信仰があるわけではない。ビジネスや仕事に有利なら教会に通ってもいいと思っている。クリスマス、イースター、聖霊降臨祭(ペンテコステ)などの大祝日&ホリデーシーズンに帰省したら、家族と教会に行くのが習慣だと思っている、家族に信心深い人誰かがいればお付き合いで…」ぐらいです。 かと言って、葬式も無神論で、カフェを貸し切りで「人前式」と言い切れるほど徹底した無神論者にもなれないから洗礼を受けている、という点、葬式仏教の日本人とさほど違いはないのかも知れません。 じゃあ、青年(目安として15歳以上ぐらい)や成人で「日本的な意味合いで無神論、無宗教の方」が、キリスト教に強い関心を持ったらどうしたらいいのでしょうか。 まずは、お近くのキリスト教の教会の雰囲気など、直感で気にいるかどうか考えてから、看板に書かれている宗派、所属をWikipediaなどでググってキッチリ調べましょう。自分がこれから生き、死ぬまでの道として、「この道を歩む」かどうかを決める一大事です。キッチリと調べるべきです。雰囲気や建物は良さげで立派だけど、入ってみると新宗教だったということもあり得ますし、カトリック教会や修道院という看板はあるけど、どうにも教会らしくないプレハブ建築や木造平屋に小さな十字架がポツンということもあります。修道院や宣教会ですと、表札に「○○修道院」と小さく書かれているだけのごく普通の民家であることも多いです。まずは電話するなり、昼間(9:00-11:00、13:00-17:00ぐらい)に直接訪問し、何時にどんな集いがあるのかなど、気になることを訊ねてみましょう。そして、まずは「行って見る」ことです。「行ってみる」だけなら、殆どの伝統会派の教会が「来るもの拒まず、去る者追わず」です。 私の住む自治体のように、「教会なんていくつあるんだか、寺よりずっと多くて全く分からない」とタクシードライバーが嘆く地域では、ドクターショッピングならぬ「教会ショッピング」状態の方も大勢います。「どこにしようかな?」と「ただいま、お悩み中」の方が、ある日は長老会派の礼拝に、別の日曜日にはカトリック教会のミサに出席する人もいると近隣では聴きます。 これは、欧米などではとても考えられない現象です。 「この週の説教はプロテスタントの牧師さんの方が迫力があった😃」、「クリスマスはミサの方が荘厳でカッコいい💕」など、「どっちにしようか決められない理由づけ、動機づけ」はさまざまです。 どちらにせよ、まずは行ってみてください。洗礼を受けるか受けないかは、本人の意志で自ら司祭、または牧師に申し出るものです。...

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