May 20, 2024

キリストとともに

聖家族と聖ベネディクトの戒律とともに歩む

「キリスト教は押しつけがましい」という誤解

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お元気ですか。しぇるりんです。(^。^)

どういう理論的な根拠、個人的体験があってのことか、訊ねても答えない方が殆どなので、私にはよくわかりませんが、「キリスト教は押しつけがましい」と信じ込んでいる日本人が未だに大勢いるようです。

私がミサに向かう時、通る道には二つのキリスト教の教会があります。

一つは大きな長老会派のプロテスタント教会、もう一つは私の通う小教区のカトリック教会。どちらの教会にも何らかの聖句を張り出したショーウィンドウ型の看板があり、夕暮れになると蛍光灯をつけ、明るくしています。

この看板はみことばを伝えると同時に、暗い交差点の一角を照らす照明の役割をも担っています

時々、その看板の前で立ち尽くし、「どうしようかな?教会に入ってみようかな?でも、入っていいのかなぁ?」といった風情で悩んでいる方を見かけます。

時に、ミサ時間を調べてからなお、立ち尽くしている方も見かけます。誰かが「どうされました?教会に来たんですか?」などと声をかけてくれるのかぁな?、とでも思っているのかも知れません。

現実に、駅の前でエホバの証人派やモルモン教の宣教師がこれみよがしに宣教活動を行なっているので、伝統会派のキリスト教でも同じようなことをすると考えているのかも知れません。

ある方に「キリスト教は押しつけがましい」というとても古典的なキリスト教差別を言われて、ふと気づきました。

キリスト教に大いに関心のある方も、誰かが「キリスト教、いいですよ。教会にいらっしゃい。」と背中を押してくれるのをボンヤリ待っている方が、この日本には多いのではないか、ということです。

残念ながら、伝統会派のキリスト教はどこの国であれ「キリスト教を押しつける」という現象は存在しません。

自ら「わたしはカトリック教会で洗礼を受けて、信徒になりたいです」と教会に申し出て、司祭に受け入れられれば、一定の教育を経て信徒になるのです。

カトリック教会の幼児洗礼は、主に親の意志で「我が子をキリスト教徒に育てるつもりです。万一の時、葬式は教会でお願いします」という一種の「入会儀式」にすぎません。

日本のお宮参りに似た行事だと思ってください。


幼児洗礼を受けただけの人は、カトリック教会で葬式をしてもらえるし、先祖代々の教会墓地に入る権利を得ますが、それだけです。

欧米と違うのは、日本人信徒で教会に墓地を持つ方は殆どいないことです。

強いて言えば、日本では葬式代が仏教よりずっと安い!、という、とてもキャッシュな評価は信徒でないご家族からも聴きました。

欧米の多くの方々は、今だに家族墓地が教会敷地内にあることも多いし、教会で葬式が出せないのは「何か教会で葬式をしてもらえないような悪事をしたのか?」と勘ぐられるため、洗礼だけ受けた「紙の上では何らかのキリスト教徒」は、未だ多数派でしょう。

南米諸国、南欧、アイルランドなど、カトリックに「紙の上では特に熱心な」社会では、堅信の秘蹟まで受けて「結婚式もカトリック教会で!」という人々も素朴に多いです。

いわゆる「冠婚葬祭&常識的にキリスト教徒」です。

実際に個人の信仰として訊ねると、欧米の方の8~9割が「特に信仰があるわけではない。ビジネスや仕事に有利なら教会に通ってもいいと思っている。クリスマス、イースター、聖霊降臨祭(ペンテコステ)などの大祝日&ホリデーシーズンに帰省したら、家族と教会に行くのが習慣だと思っている、家族に信心深い人誰かがいればお付き合いで…」ぐらいです。

かと言って、葬式も無神論で、カフェを貸し切りで「人前式」と言い切れるほど徹底した無神論者にもなれないから洗礼を受けている、という点、葬式仏教の日本人とさほど違いはないのかも知れません。

じゃあ、青年(目安として15歳以上ぐらい)や成人で「日本的な意味合いで無神論、無宗教の方」が、キリスト教に強い関心を持ったらどうしたらいいのでしょうか。

まずは、お近くのキリスト教の教会の雰囲気など、直感で気にいるかどうか考えてから、看板に書かれている宗派、所属をWikipediaなどでググってキッチリ調べましょう。

自分がこれから生き、死ぬまでの道として、「この道を歩む」かどうかを決める一大事です。キッチリと調べるべきです。

雰囲気や建物は良さげで立派だけど、入ってみると新宗教だったということもあり得ますし、カトリック教会や修道院という看板はあるけど、どうにも教会らしくないプレハブ建築や木造平屋に小さな十字架がポツンということもあります。

修道院や宣教会ですと、表札に「○○修道院」と小さく書かれているだけのごく普通の民家であることも多いです。

まずは電話するなり、昼間(9:00-11:00、13:00-17:00ぐらい)に直接訪問し、何時にどんな集いがあるのかなど、気になることを訊ねてみましょう。

そして、まずは「行って見る」ことです。「行ってみる」だけなら、殆どの伝統会派の教会が「来るもの拒まず、去る者追わず」です。

私の住む自治体のように、「教会なんていくつあるんだか、寺よりずっと多くて全く分からない」とタクシードライバーが嘆く地域では、ドクターショッピングならぬ「教会ショッピング」状態の方も大勢います。

「どこにしようかな?」と「ただいま、お悩み中」の方が、ある日は長老会派の礼拝に、別の日曜日にはカトリック教会のミサに出席する人もいると近隣では聴きます。

これは、欧米などではとても考えられない現象です。

「この週の説教はプロテスタントの牧師さんの方が迫力があった😃」、「クリスマスはミサの方が荘厳でカッコいい💕」など、「どっちにしようか決められない理由づけ、動機づけ」はさまざまです。

どちらにせよ、まずは行ってみてください。洗礼を受けるか受けないかは、本人の意志で自ら司祭、または牧師に申し出るものです。

特に成人の場合、何年通っても本人の申し出がなければ洗礼を勧める人がいない場合もあるでしょう。

カトリック教会のミサで祝福を受ける方の中に、「信徒だけど、聖体拝領が出来ない状態の人」も一定の条件下でいるため、信徒にも、洗礼を受けたカトリックの信徒さんか、未信者さんかの区別がつかない場合があります。

未信者の誰かが自分から「洗礼を受けたいです」と言えば、健康な青年男女~であれば、一年ほど洗礼講座に通ったのち、洗礼が受けられます。男性、女性、性転換の有無は、受洗において関係ありません。

また、臨終、または死がほぼ確定した病状で洗礼を希望する場合、洗礼講座の受講有無に関係なく「臨終洗礼」を受けることができます。洗礼は、特別な場合(離島まで司祭が船をチャーターして行く等)を除きお金は頂きません。

ただし「洗礼」は、伝統会派の新旧キリスト教で「福音派の中でもその教えに異端の疑いがある。または異端である。」と知られた宗派や他の宗教からの転向でない限り、生涯で一回しか受けられません。

カトリック教会の信徒でも、一定条件下で認められれば結婚(婚姻の秘蹟)なら「再婚」もアリなことを鑑みるに、オトナにとって洗礼は、結婚より厳粛に生死を超えて受け止めるべき事柄なのかもしれません。

実際、長老会派のお隣の教会からカトリックに転向した事例がありました。この時は、長老会派の牧師さんから洗礼証明書を頂いて、伝統会派での洗礼であることを書面で確認したのち、「転向式」と「初聖体式」を行います。

どうするにせよ、キリスト教に興味がある、関心がある、悩みのある時に聖書を読んでいる…方に信徒や司祭、宣教師、牧師など、誰かがキリスト教を強要する、ということは伝統会派では起こり得ません。

戦国時代に聖フランシスコ・ザビエルが伝えたカトリック教会の教えは、江戸時代に徹底的に弾圧されました。2018年6月に世界遺産登録になる「潜伏キリシタン遺跡群」が伝えるように、270年の間、司祭なしにイエス・キリストの教えを守り続けた潜伏キリシタンがいました。

その時代に反キリシタン思想の根幹として徳川幕府が唱えたのが「南蛮のキリシタンの教えを押しつけられるのは迷惑千万なり」という考え方です。

戦国時代は応仁の乱の後、武家やサムライだけの闘争にとどまらず、大規模寺社の武力と経済力の闘争が複雑に入り組んで起こりました。寺社の「お助け」の恩恵を受ける人がいる一方で、寺社同士の紛争に巻き込まれて命を失い、心身不自由になる人も大勢いました。

欧米でも似た状況にありましたが、それはやがて政治革命と宗教革命、二つの革命へとそれぞれ別の道をたどることで、歳月を経て後、政教分離へと進む原動力になりました。

日本では、宗教勢力と民衆の呼応、武装勢力と地域勢力の呼応で世が乱れ、混乱期の常としてまじないやら占いなどに頼る人が増え、さらに混迷と対立を深める当時の状況の根本的な立て直し、または新しい考えを求めていました。

そこに、トリエント公会議の開催を求めたイエズス会士らが、「キリストの良い教えを伝える本来の宣教活動をしたい」と言う純粋な信仰を持ち、日本にやってきました。

戦国時代の終わりまで、真面目な仏僧ほどキリスト教に対して好意的だったようです。当時のローマ教会がめざしていた反動的宗教改革の意図を理解した上で、キリスト教が日本に根づけば、仏教寺院もまた宗教改革の技法を学べるのではないか、という考えも当時はあったようです。

そのような仏教寺院側の内部改革の意図もまた、徳川幕府には厄介ごとに思えたのでしょう。

駿河の国の領主だった頃、領内の一向一揆に悩まされた松平家(のちの徳川家)の藩士にしてみれば、「仏教寺院の改革運動?一向一揆の悪夢が蘇るのか?」と思ったのかも知れません。

それゆえ徳川幕府は寺社統制とキリシタン弾圧に特に力を入れ、少数派の一部仏教や神道、幕末には非定住者(被差別階級の人々など)や、領地の枠を超えて連帯する一部の修験道の人々まで、タテ割り行政の邪魔をすると見なされた集団は何であれ徹底弾圧する政治方針を打ち立てました。

「キリシタンは押しつけがましい南蛮の教え」という考え方の根底には、「お上=政府より、神を大切なものだと考えること自体、不遜である」という、極めて中世的で世俗的な政教一致政策に恋々とする明治維新政府の姿勢が、今も日本社会に随所に残っていることの現れだと思います。

結果として、キリシタン禁教時代が終わって一世紀以上経ったいまも、キリスト教に関心のある方が「教会に一度でも好奇心で訪問して、キリスト教を押し売りされたらどうしよう?」という、現実感も根拠もない恐怖感を持ってしまうのだろうな…と思います。

実際には、訪れた教会が新宗教でなければ、また来いなどとしつこく勧めたり、モノをくれてまで歓心を買おうとすることは滅多にないと思います。

友人のそのまた友人の誘いで大韓長老会系の教会の礼拝に一度だけ行ったうちの息子は、なぜか韓国製の美顔パックを二袋、貰って帰って来たことがあります。今だになぜ聖句のカードなど、キリスト教の教会でくれそうな月並みなプレゼントではなく、成人男子に美顔パックだったのかは謎です。

ちなみに大韓長老会派は、アメリカの長老会派が韓国に定着した韓国最大のプロテスタント会派であり、異端やその疑いのある福音派ではありません。

もし、あなたが聖書を読んでみた、キリスト教に関心があると言うなら、教会に行ってみることをお勧めします。

自分一人で一方的に本を読んだだけでは分からないことも、誰かと直接ことばのやり取りをする、聴いてみる、体験してみることで、自分がどう感じるかがわかるからです。

百聞は一見に如かず、とも言います。ぜひ、伝統会派の教会へ、できればカトリック教会へおいでください。

イエスさまが、あなたを待っておられます。

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