『クリスマス・イブ』と『クリスマス』の違い
1 min readお元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)
2018年、平成最後の天皇誕生日は日曜日で、ちょうど振替休日がクリスマス・イブになります。
そこで、今日2018年12月23日は、特別配信でクリスマス・イブミサへのお誘いも兼ねて、クリスマス・イブとクリスマスの違いについて、改めてお話させてください。
よく、クリスマス・イブというと「恋人たちのクリスマス」と思われがちです。
これは、あながちカトリック教会でも「ぜんぜん違う」とは言い切れません。
「イブ」とは中世の英語で「eve, even, even=evening(夕方)の異形」を表すことばで、祝祭日の前夜祭を意味します。
聖公会の教会の祈りでは、いまでも晩の祈りを「even song」と今でも呼びます。
つまり「イブ」とは、「前夜祭、直前、夕方」に由来する言葉です。
すると、「夕方、または晩」って「何時から?」という疑問が湧きます。
実は、「イブ」には時間的な定義があります。18:00~が「夕方、晩」と現代では定められています。
なので、クリスマス・イブのミサは主日(日曜日)の土曜特典ミサと同じく、前日の18:00~以降に始まるのです。
さて、クリスマスイブが「恋人たちのクリスマスの日」と思われているのは、イブ・ミサのとき、まだ家族として迎え入れ、迎え入れられるために正式に紹介するまでに至っていない恋人たちが、教会の集いで会える日でもあるからです。
別にミサがデートの場所、というわけではありません。ですが、今でも恋人と一緒にミサに参加し、自宅まで送り迎えをする、という古い習慣はカトリック教徒が多数派の国ではあります。
クリスマスのミサには、イブ・ミサ、いわゆる前晩のミサ、クリスマス当日である25日の朝のミサ、昼のミサの三種類のミサを行うことができます。
実際に、この三種類のミサを全て行う場所があるのかどうかはわかりません。なにせ、カトリック教会の<教会の祈り>という日々のおつとめが4回+ミサ3回+αでそれぞれの修道会や宣教会の定める祈りやロザリオの祈りなどを行うとすると、まる二日間、ほぼ休むひまなく祈り続けることになってしまうからです。
街中にあるカトリック教会では、通常、クリスマスイブのミサを1~2回、クリスマス当日の昼のミサを一回、という感じでしょう。
クリスマスイブは、教会でミサや礼拝に参加し、神と人とのつながりを確かめ合う大祝日の前夜祭です。
その点、クリスマス当日は家族のきずなを確かめ合う日なので、イエズス、マリア、ヨセフが初めて集った日を記念し、家族だけのお祝いをするのが通例です。
もちろん、新しく家族になる予定の方や、家族のように愛する貧しい人をもてなすことができるなら、素晴らしいでしょう。
ですが、クリスマス当日には「あやふやな関係にある友達以上、恋人かも知れないけど、生涯を共にする家族になれるかは未知数」の人は、その人なりに「聖家族がともにイエズスのご降誕を祝われたように」、家族と過ごすべき祝祭日なのです。
じゃあ、「ぼっちな自分はどうしたらいいの?」と言われそうです。
ボッチな方こそ、ぜひクリスマスイブのミサに来ていただきたいです。
まず、ほかの人と同じ空間にいて、自分らしくいられるなら、イブミサに来ていただくだけの甲斐があります。
神のひとり子のご降誕を祝う前晩に、神の愛と自分がともにいることをより深く悟ることが、前晩のミサの真の意味合いだからです。
だから、クリスマスイブのミサでご聖体拝領にあずかっても、クリスマスの当日の昼のミサでご聖体拝領にあずかれます。
これが通常の主日なら、前晩の特典ミサはあくまでも「日曜日は仕事や部活、試合や用事で忙しい方のためのミサ」なので、土曜日と日曜日の両方のミサでご聖体拝領はできません。
しぇるりんは、いままで海外生活が長いのですが「クリスマスにはお客さまを招待します!」と決めた特定のご家庭以外では、クリスマス当日に誰かを招待することはありません。
したがって、海外ではほぼ「ぼっち」だったしぇるりんも、クリスマス当日の祝いに招かれたことはほぼありません。
特にすることがないので、昼のミサに行くか、家で一人ですごした記憶があります。
やはり、ひとりぼっちはこころ痛むほど寂しかったですね。当時はインターネットが発達した時代ではなく、テレビと電話しかない時代でしたが、テレビを消し、読書をしたり、寝ころがって天井を見つめて過ごしました。
日本の温暖な気候なら、公園に散歩でも行きたかったのですが、しぇるりんが海外生活したほとんどの場所が寒冷地だったため、外出する気にはなりませんでした。
いま、もしもわたしがぼっちで、居場所が温暖な気候なら、ネットもやめ、街のイルミネーションからも離れて、公園か自然を散策したいですね。
空の鳥、雲の流れを感じていると、いつのまに「私は神さまと二人でいるのだ」ということ、ひとりぼっちだと思っている自分は、実は孤独ではないことに気づきます。
仕事や学校の日であれば、一駅ぐらい歩きながら「ああ、自分も生きているんだな」と感じたいかも知れません。
自分に対して心を閉ざしていると、誰かを愛することはできません。誰かを愛するには、まず、あるがままの自分を愛せること、いつわりのない自分を認め、やたら他者に責めを負わせないことです。
クリスマスが商業化し、街はイルミネーションに溢れすぎ、ケーキとチキンの販売商戦に明け暮れているようにしか感じられなくなってきました。
カトリック教会に来れば、ほんとうのクリスマスが味わえます。どれほど商業化し、陳腐なものになりかけていても、この日を心を込めて祝うだれかが十人に一人、百人に一人いれば、毎年、クリスマスが訪れるだけの意味合いはあります。
クリスマスイブには、ぜひカトリック教会のミサにおいでください。